黙示録

趣味について気ままに書き記します。

麻枝准が変わらず描き続けてきたメッセージ ~ 『ヘブバン 第五章前編』をプレイして

 

©WFS Developed by WRIGHT FLYER STUDIOS ©VISUAL ARTS/Key

 

我々が求めていたものがそこにあった。


2024年2月23日にリリースされた「ヘブンバーンズレッド 第五章前編『魂の仕組みと幾億光年の旅』」

AIR』『CLANNAD』を始めとする名作の数々のシナリオを世に送り出してきた麻枝准氏による最新作「ヘブンバーンズレッド」の最新シナリオに当たる第五章前編。

このシナリオがいかに完成度の高いものであるか、シナリオ中の鍵となる要素を振り返りながら、麻枝氏が歴代作品を通して描き続けてきたメッセージを踏まえつつ書き残したい。

 

※本記事には「ヘブンバーンズレッド 第五章前編」の内容のネタバレが多分に含まれます。ご理解の上お進みください。
※本記事には実際のゲーム内と異なる描写が含まれる場合があります。本編中の描写について誤っている箇所がございましたらご指摘ください。

 

 


ヘブンバーンズレッド 第五章前編『魂の仕組みと幾億光年の旅』

 

第五章前編で鍵となる3つのピース


第五章前編ではシナリオの大筋・個々のエピソードを通して「自身の過酷な運命を受け入れて、それでも前へ進んで行く」というメッセージが物語中繰り返し描かれることになる。


特に本章で鍵となるエピソードは、


1. 月歌の過去
2. 樋口の決心
3. 月歌の喪失

 

この3点である。これら3つのすべての要素が本章のシナリオとメッセージを形作る上でなくてはならないものであり、このことが本章を一切の無駄のない美しいシナリオに仕上げたことに貢献している。

 

月歌の過去


本章では最初から最後に至るまで、主人公・茅森月歌が同31A部隊員の逢川めぐみのサイキック能力を通して精神世界(シナリオが進むにつれ、これが単なる精神世界ではなく実際の過去へと遡る行為であることが判明していく)へとダイブし、自身のルーツを辿っていく構成となっている。
何度も繰り返すダイブを通して、月歌は両親との生活や音楽活動を始めるに至った経緯、自身の死とそれに精神を苛まれる母・陽向、その後の陽向の死を思い出していく。はじめはこれらの悲劇的な結末を受け入れられず、ダイブを私利私欲のために利用したり、過去改変を試みることで死を回避しようとしていく。しかし、実家に火災を起こそうとするなど自滅的な行動を通して、自身の行為が他ならぬ最愛の母を傷つけていることに気づいたことで、自身に待ち受ける死と、その後の母親の死を受け入れる決断をする。

過去の過酷な運命に直面したことでそれを受け入れることが出来ず、「ずっとこの世界でお母さんと過ごしたい」「自分の死とお母さんの死をなんとしてでも回避したい」という逃避行動を繰り返した末、その行為が無謀なものであることを理解しその運命を受け入れることで、月歌は前へと進んでいく。

 

 

樋口の決心


本章では、これまで繰り返し「死への欲求」を口にしていた樋口聖華にもスポットが当たることになる。
第二章での部隊長・蒼井えりかの死後、部隊が5人へと減ったことで作戦行動に支障をきたし続けている状況に嫌気が差した樋口は、部隊メンバーに部隊からの脱退を申し出る。ここで、彼女は「セラフ部隊員はナービィをヒト化したヒト・ナービィである」という、一部メンバーのみしか知ることのない事実を知る者の一人であること、「死への欲求」を満たすために自ら志願し、ヒト・ナービィへと生まれ変わっていた(=1度人間として死亡する経験をした)ことが明らかとなる。
4日間の部隊長適性審査を兼ねた行軍任務を経て、なお脱退への決断が変わることのない樋口。ところが、任務最終日に偶然巻き込まれた地面滑落により部隊から孤立した樋口は、潜伏キャンサーの猛攻を一人受け続けることになる。兼ねてから死亡欲求を口にしていた彼女だが、本当の死の危険に晒されたことで初めて「生きたい」という心の内を吐露し、間一髪で救出にやってきた部隊メンバーにその思いを打ち明けることで一連の脱退騒動は収束する。

部隊からの脱退、そして何より「死」という逃避行動の末、心の奥底に眠っていた「生きたい」という願望に気づき、セラフ部隊員として果たすべき役割を受け入れる。ここでようやく「死」という後ろ向きな感情から、「生」という前向きな感情へとシフトし、樋口は前へと進んでいく。

 

月歌の喪失

 

淡路島への行軍中、未確認キャンサーと接敵し、月歌は部隊メンバーの目の前でキャンサーに捕食されてしまう。なす術なく撤退したメンバーは月歌の生存が絶望的な状況であることに打ちひしがれていた。特に、同部隊の和泉ユキはこれまでの心の拠り所としていた月歌を失った現実を受け入れることが出来ず、自殺を試みる。そこで現れるのがほかでもない樋口聖華。「樋口の決心」項で記した過去の自身と和泉とを重ね合わせ、自身の心境の変化と和泉の果たすべき役割を諭し、和泉は死を思いとどまることになる。

直後、月歌の電子軍人手帳から生存反応信号を受信した司令部から月歌救出作戦が発せられ、全部隊総動員による未確認キャンサーの討伐・月歌の救出が敢行されることになる。各部隊との連携の末再度月歌を捕食したキャンサーと邂逅した31Aメンバーは討伐に成功し、キャンサーの体内に取り込まれてた月歌を和泉が素手で引きずり出すが、呼吸は既に止まっていた。月歌に対して伝えられずにいた素直な思いを吐露しながら、懸命の救命措置を繰り返す和泉。それに応えるかのように月歌は息を吹き返し、救出作戦は成功に至った。

月歌の死という現実を受け入れられず「死」への逃避を図った和泉だったが、樋口の言葉をきっかけとして現実を受け入れ、前へ進んでいく決断をする。そしてこの決断が、結果として月歌を救うことに繋がっていく。

 

 

3つのピースが重なり合うことで辿り着く結末

 

本章ではBAD ENDが用意されており、月歌が繰り返す精神世界へのダイブの中で自身の「記憶集め」をしていない場合、和泉の救命措置でも月歌は目覚めることなく息を引き取ることになる。
ところが、このエンディングを経ても和泉は再び自殺を選ぶことはなく、再び戦場へと身を投じていく姿が描かれている。「月歌の喪失」項で触れた通り、彼女は既に前へと進む決断をしているからだ。つまり、この決断は和泉にとって自身の生きる理由である月歌の生死ですら問わない、確固としたものであるという力強いメッセージが込められたエンディングとなっている。

さらに興味深いのは、TRUE ENDとBAD ENDとで月歌の生死を分けたのは「月歌が過去と向き合ったかどうか」という点にある。
「月歌の過去」項で述べた通り、月歌が精神世界へのダイブにおいて経験した「記憶集め」を通して、自身の運命を受け入れ前へと進むことを選んだ結果、彼女自身の生きる意志と和泉の献身が合わさって、ようやく月歌は生還へと辿り着くことができる。

 

本章のラストでは、月歌が最後の精神世界へのダイブを通して、母・陽向に対し自身の死や、その後ヒト・ナービィとなった月歌と入れ替わっていた真実を打ち明け、そしてこの事が向かい来る陽向の死に繋がったかどうかを問うこととなる。陽向は月歌の死とナービィとの入れ替わりをすでに悟っており、それでもなおヒト・ナービィ月歌を愛していたこと、やがて来る自身の死は月歌の死とは無関係であることを伝える。ここでようやく月歌は、揺らいでいた自身の存在意義を確固たるものとし、「母との別れを受け入れる」という最後のピースを埋めたことで物語は幕を閉じる。

 


改めて全体を振り返ると、3つのピースである「月歌の過去」「樋口の決心」「月歌の喪失」それぞれがいかに重要であったかが分かる。
即ち、樋口が選んだ「生きる」という決断が和泉の「生きる」選択へと繋がり、その和泉が月歌の命を繋ぎ止める。さらに、月歌自身が旅を通して向き合ってきた自身の過去が最後の鍵となって、月歌は再び世界に戻ることができ、登場人物すべてが「運命を受け入れて、前へ進んで行く決断をする」という決着に至った。いずれかが欠けていれば辿り着くことの出来ない結末であり、これが第五章前編が一切の無駄のない美しいシナリオへと仕上がっている所以といえよう。


「麻枝作品」の観点からみた第五章前編


筆者は本ゲームにおける本章以前のシナリオ、とりわけ第2章における蒼井えりかの死、第3章における蔵里見の死に感情移入することが出来なかった人間である。この二人の死の描写は、序盤からユーザーに感動体験を与えるという制作上の意図は勿論のこと、蒼井の死はヒト・ナービィの存在を示唆するものとして、蔵の死はヒト・ナービィの存在を登場人物たちに示すものとしてシナリオ構成上デザインされたものであり、物語上の舞台装置として描かれている感覚を拭い切れなかったためである。


本章では、直接的にキャラクターの死が描写されることはない。過去の月歌と母・陽向の死は直接描写されることはなく、樋口と和泉に至っては死そのものを回避した。ところが、本章で描かれた「生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされる月歌・和泉・樋口」「死という未来が確定しているかつての月歌と母・陽向」は、シナリオ進行上の舞台装置としての死ではなく、あくまで「自身に定められた運命を受け入れて、前へ進んで行く」というテーマを描くための要素として機能している点が明確に異なる。


そして、このテーマこそ麻枝准シナリオライターとして20年以上に渡って一途に描き続けてきたメッセージに他ならない。観鈴との別れを経てもなお前へと進んでいく晴子、智也との別れを経てもなお前へと進んでいく智代、かなでとの別れを経てもなお前へと進んでいく音無、そして自身の過去と母との別れを経てもなお前へと進んでいく月歌......

シナリオライター麻枝准が描くテーマは、処女作「MOON.」から最新作「ヘブンバーンズレッド」に至るまで一貫してこの「過酷な運命を受け入れて、それでも前へ進んで行く」という点を愚直に描き続けてきた。いつの時代であっても我々は現実に絶望し、生きる希望を見失ってしまうことがある生き物である。そのような人間の性に対して最後まであがき続けることを訴えるこのメッセージは、人間が人間である限り普遍的なものであり、それ故彼の作品は世代や国境を超えて愛されているのかもしれない。

そして、本作で描こうとしているメッセージが過去の作品からブレることなくこれまでの麻枝作品と同一のものであることが再認識できた今、今後の展開がどうなっていくのか、期待は膨らむばかりだ。

最後に、第五章前編のキャッチコピーで本記事を締めくくりたい。

 

やっぱり、大好きだ。」

 

その他

月歌の精神世界


本編中で度々挿入される月歌の精神世界=過去の風景が、Kanon・舞ルートにおける稲穂畑やCLANNADにおける幻想世界のような、歴代麻枝作品のいくつかで描かれたイメージと類似している点が印象的だった。これらに共通しているのは現実の時間軸と隔絶された世界であることであり、『ONE 〜輝く季節へ』から執拗といえるほどに描き続けてきた、麻枝氏のイメージする別世界、あるいは彼の原風景のビジュアルイメージなのだろうか。だとすれば、それをゲームフィールドとして自由自在に動き回ることのできるゲーム体験がいかに贅沢なものであるか。プレイする度にそのように想像を膨らませることができ、感慨に浸っていた。

 

明かされていない謎・新たな謎

 

第五章前編を通して明らかになったものは多いもの、逆に新たに増えた謎や未だ明かされていないものも多い。月歌の水難事故、月歌へと生まれ変わるナービィ、陽向の水難事故といった一部始終は本章でも描かれることはなかった。加えて、第五章前編終了時点でおそらく月歌のセラフは1本のままであり、「なぜ月歌だけが2本のセラフ使いなのか」についての謎も残ったままである(セラフについては、冒頭の段階では「人間月歌・ナービィ月歌の2つの魂によって2刀使いとなった」と考えていたが、ナービィが熊を撃退する際に使用したセラフが既に2本だったため、当然この推測は外れていることになる)。
これらの謎が「伏線としてあえて描かれなかった」のか、「描く必要がないと判断し描かれず、今後も描かれることはない」のか。過去の麻枝作品の傾向からどちらもあり得るため、現時点で正解を推測するのは非常に難しい。

 

第五章前編の現在位置

第五章前編でかなりシナリオが進んだことで、いよいよ物語の結末がどのようになるのかと考える段階に入り始めた。麻枝氏がリリース一年目の段階で「ストーリーの節目となるラストシーンは数年前から考えていて、そこに向かって全力で取り組んでいます」「ラストシーンを描いた後のつぎの展開も考えています」とインタビュー*1で語っていたことは記憶に新しい。次章である第五章中編、そしてその後の展開にも思考を巡らせたい。

説明・台詞は少ないほど良い ~「スーパーカブ」第一話をみて

※当記事は筆者の独断と偏見に基づき書かれたものです。内容には事実に基づかないものが含まれる可能性があります。

 

スーパーカブ」というアニメの第一話をみた。

supercub-anime.com

 

近年のアニメ作品には疎いが、第一話の出来だけでいうと、とても良かったように感じた。

 

何が良かったと感じさせてくれたのだろうか。

私は、その答えは「台詞・モノローグ(心の声)の少なさ」にあるように思う。

 

この作品の第一話をみてみると、初めて主人公の女の子によって台詞が発せられるまでに、約3分半の時間を要している。

 

ほぼ全ての視聴者が目にするであろう、作品にとって最も重要な部分である物語の開幕数分間を、一切の台詞なく進行させているのである。

 

説明の煩わしさ

世の大多数のアニメ作品は、とにかく「説明」をしがちであるように感じる。

 

その作品がどのような世界観なのか、画面に映っている登場人物はどういう立ち位置の存在なのか、主人公はどういう人間なのか、など、作品を構成する要素がどのようなものなのかを、登場人物の台詞あるいはナレーションを通じて、視聴者に事細かに明示する。「この作品はこういう作品です。見てくれる気になってくれましたか?」という、製作人の思いをひしひしと感じる。

 

私はこのような「説明」が苦手で、近年のアニメについていけなくなってしまったという側面もあるように思う。その理由は2つある。

 

1つは、単純についていけないのである。物語開幕早々「説明」が延々と続き、中には第一話が「説明」だけに終始している作品もある。ひとつひとつの情報を頭で整理するだけで精一杯で、とても疲れてしまうのである。

 

もう1つは、「こういう緻密な設定で作品作ってみました!どや!!!」という、製作人のしたり顔が画面を通してみえてしまうからである。原作者による作品世界観、そしてアニメスタッフによるその世界観の見事な映像化、それらをこれ見よがしに言葉で提示されても、引いてしまうのである。

 

「説明」は無いに越したことはない。

 

スーパーカブ」第一話の冒頭3分半では、女の子の 起床→朝の準備→登校 というシンプルな場面が描かれている。ではこの場面で、この女の子がどんな人間で、これからどのように物語が展開されていくのかを説明する必要があるだろうか。言うまでもなくその必要はない。なぜならこの僅か3分半の間に、その説明が不要なほど丁寧に女の子の生活ぶりが描写されているからである。

 

まだ続けよう。女の子は灯りもついていない部屋で黙々と準備をしていることから、家族がいないことが読み取れる。そしてお弁当として適当なインスタント食品を携えていることから、生活(ひいては人生)における拘りがないことも読み取れるだろう。

 

つまりこの女の子は孤独であり、何か拘りを持った、言い換えれば趣味をもった人物ではないことが描かれている。このことは、「この作品はこの空っぽな女の子が趣味を見つけ、生きる意味を見出していく物語ですよ」ということを、我々に暗示していることをメタ的に読み取ることができる。

 

一切の言葉なしに、登場人物の人間性、作品の方向性を「説明」しているのである。

これこそが映像作品がもつ最大の武器ではないだろうか。

 

言葉で事細かに「説明」するのなら、小説などの文字媒体のほうが遥かに適している。製作人は、自分の意図の思いのままに世界観を文字起こしすることができるし、読者は混乱すればすぐに遡って読み返すことができる。

 

しかし、映像作品においては目に見えるものこそが最も重要な役割をもつ。言うまでもなく、人間は情報のほとんどを視覚情報に依存しているからである。そしてこれは大きなアドバンテージである。百聞は一見に如かずの言葉の通り、画は言葉で表現せずとも伝えることができるからである。ならば、映像製作人は画で情報を伝える努力をすべきである。というより、そうでないと勿体ない。

 

ひとつ例を出してみよう。

機動戦士ガンダム」(1979)は驚くほど緻密に練り上げられた世界観設定と現代にもなお響くメッセージ性を持ち合わせており、今もなお慕われ続ける名作であるが、劇中でその設定が丁寧に説明されるシーンはほとんどない。物語は宇宙に浮かぶスペースコロニーというところから始まるが、そのコロニーというものがいったい宇宙のどのあたりにあるのかは、劇中に断片的に出てくる情報から推測するしかない。そしてその説明が初めてはっきりとなされるのは私の記憶の限り、「機動戦士ガンダムZZ」(1986)第一話である。「機動戦士ガンダム」第一話から通し九十話ほどを経て、初めて説明がなされるのである!

 

だがこれは、作者が不親切だから説明を怠っていたのであろうか?おそらくそうではない。作品設定を事細かに説明するのに物語の貴重な時間を割くくらいなら、他に時間をかけるべきところがある、という作者なりのメッセージではないだろうか。われわれ視聴者はそうした製作人のメッセージを、画面を通して受け取らなければならない。

 

台詞は少ないほどよい

さて、冒頭で述べた「台詞・モノローグ(心の声)の少なさ」という点に戻ろう。台詞・モノローグが少ないことによるメリット、それは視聴者の解釈の幅が広がることである。

 

スーパーカブ」第一話は全編を通して、登場人物の台詞量が極めて少ない。例えば、女の子がスーパーカブを買うシーンでは、女の子とおじさんとの淡々とした短い台詞のやりとりに終始している。女の子が初めてスーパーカブに乗る極めて重要なシーンにも関わらず、モノローグどころかBGMすら一切ない。

f:id:sergea:20210426212513j:plain

女の子がスーパーカブを買うシーンより

 

視聴者は、二人の断片的な台詞に加え、表情の変化や仕草といった画面情報から、二人が瞬間瞬間にどのような心情を抱いているのかを想像せざるを得ない。女の子がカブに跨った瞬間、画面は急に明るくなり、どこからともなく風が吹いてくる。彼女は一言も発しない。そのとき感じたのは高揚感なのか、感動なのか、動揺なのか。それは我々が想像するしかない。そして、その想像が正しいかどうかに答えはない。登場人物があの時あの場面で何を考えているのかは、視聴者が想像するその数だけ答えが存在する。それが解釈である。

 

しかし、台詞・モノローグは、これを打ち壊してしまう。制作側が「この人物はこう考えていますよ」という答えを脚本に書き出してしまうことで、視聴者による想像の余地は残らず消えてしまう。

 

加えてモノローグに関しては、もう一つ問題点がある。それは、その存在そのものが「嘘」であることである。

私たちの現実において、誰かの心の声が聞こえるなどということはありえない。モノローグを物語に挟み込んだ瞬間、私たちは作品という「嘘」、つまりフィクションをみていることに気づいてしまう。それはあまりにも興ざめである。

 

視聴者の責務

説明や台詞だらけの作品ばかりが増えてしまっているのは、それを作る製作人の責任ではない。私たち視聴者の責任である。

親切丁寧に説明をしてくれる作品は視聴者が楽をできる。我々が自らで作品を理解・想像しようとする努力を怠り続けた結果、自然淘汰の末にそのような作品しか残らなくなってしまった。製作人同様、我々視聴者も作品に対し真摯に向き合わなければならないのである。

 

スーパーカブ」、今後も全力で観ていきたいと思う。

「神様になった日」ティザーPVから作品考察をする

2020年5月10日、ニコ生にてオリジナルアニメ「神様になった日」の告知がされた。

 

kamisama-day.jp

 

いわゆる「泣きゲー」と呼ばれるジャンルで2000年代を席巻し、2010年代にはオリジナルアニメの脚本も手掛けた麻枝准氏による、オリジナルアニメ第三弾である。

放送開始予定は2020年10月。この記事を書いている時点で既に放送まで半年を切っているということになる。

麻枝氏のオリアニ放送は祭りである。

Angel Beats!」「Charlotte」(以下、前二作品)放送時、連日2chが大いに盛り上がっていたのは記憶に新しい。それが5年ぶりに帰ってくるのだ。

その当時の盛り上がりを体感するとともに、当事者意識を高めることで作品への没入感をより高めることを狙いとして、本記事を執筆する。

 

注1:著者は考察記事などはもとよりブログの執筆自体初めての経験である。不慣れな点や分かりづらい点が多々見られると思うのでご容赦いただきたい。

注2:本記事には非ロジカルな妄想の部分も多々含まれる。ご注意いただきたい。

注3:本記事ではこれまでの麻枝氏の作品のネタバレを一部含んでいる。ネタバレを望まない方はご注意いただきたい。 

 

ティザーPV

まず本稿をお読みいただくにあたり、以下のPV映像をご覧いただきたい。


Key×アニプレックス×P.A.WORKSオリジナルアニメーション企画第3弾「神様になった日」ティザーPV

 

以下、PV中のテキストを文字起こししてみた。

 

 

2010 Angel Beats! ここから挑戦は始まり—
2015 新境地〈フロンティア〉を目指した Charlotte
そして
2020 時計の針は 再び動き始める
その先には、立ち返る原点があった—

 

Key ANIPLEX P.A. WORKS
オリジナル・アニメーション企画 第3弾

 

彼女 は目覚めた
世界 の終わり を見届けるために
彼女は ひとりの少年を選んだ その お供として—

 

キャラクター原案 Na-Ga
アニメーション制作 P.A. WORKS
原作・脚本 麻枝准

 

彼女が 神様に なった日、
世界は 終焉へと 動き出した。

 

「神様になった日 The Day I Became a God」

 

2020年10月
麻枝准は、原点へ回帰する—。

 

 

本稿では、上記のテキストから黄金の碑文*1よろしく作品設定を考察、というか妄想していく。

 

PVを観た所感

前二作品もそうであったが、麻枝オリアニの放送前PVはバケモノ感がすさまじい。
それには映像表現的な美しさと、そしてBGMの存在が大きいだろう。Angel Beats!放送開始前、Theme of SSSを無限ループしていた方々も多いのではなかろうか。

本PVも、聴いた瞬間に麻枝サウンドや...と感じられる美しいピアノ伴奏で彩られている。変拍子・転調・大サビで足されるバイオリンメロディ、、、

スタッフクレジットは現時点でまだ明かされていない部分が多いが、PVの楽曲を聴く限り、恒例の麻枝准×ANANT-GARDE EYESのタッグだろうか。

 

さて、本PVでは二つの楽曲が使用されている。

一つ目は、前述したタイトル・スタッフクレジットまでに使用されている楽曲。そして二つ目は、特番告知から使用されている楽曲である。

 

この後者の楽曲、過去作品で既出のものでないのであれば、主題歌・劇中歌としてボーカル楽曲があると考えていいだろう。

明らかにボーカルラインのメロディが付けられており、なおかつコードも付けられている。著者は音楽理論にさほど精通してはいないが、ざっくり聴いている限り小室進行がつけられているように思う。


小室進行100曲メドレー作ってみた。 【同じコード進行の曲】

動画のとおり、小室進行は夏影や一番の宝物など、麻枝作品の勝負曲(と著者は勝手に考えている)として用いられがちなコード進行であり、この楽曲が麻枝作曲の勝負曲であることが伺える。音源化が待ち遠しい。

 

世界観

シナリオ

著者は、本作がループもの*2作品になるのではないかと考える。
理由としては、PV中にこれでもかというほど繰り返し登場する時間表現である。
具体的には、

・タイトルロゴ含め、何度も描写される時計盤

・冒頭 2010→2015→2020 のような時間の流れを意識させる構成

・「時計の針」「回帰」という表現

これらは時間遡行を強く想起させる表現であり、ループが何らかの形でシナリオに関わってくるのではないかと考えられる。

 

一方で、このような「神様になった日=ループもの」説に対する反例も考えられる。

 

第一に、時間表現が必ずしもループ表現には結びつかない点である。
PVで協調されている「終焉」「終わり」といったワードから、劇中では世界の崩壊(それが戦争などの結果としての現実的なプロセスによる終わりを指すのか、ファンタジー・空想的なプロセスによる終わりを指すのかは現時点では不明)が何らかの形で描写されるのは間違いない。その崩壊へのカウントダウン表現として時間表現が強調されている、とも考えられるのである。

 

第二に、これはメタ的な考え方にはなってしまうが、前作「Charlotte」がゴリゴリのループものであった点である。
Charlotte」の内容については最終話の描かれ方があまりにも雑すぎて失望したショックから記憶が欠落している部分が多いが、たしか主人公・乙坂有宇には実は兄貴がいてタイムループを繰り返して裏で奔走している、といった内容だったと記憶している。つまりゴリゴリのループものである。前作で使用したループもの設定のカードを本作でも切るか、ということを考えるとループもの説は説得力に欠けてしまう。

 

これについては今後、漸次解禁されていく情報も踏まえて考えていきたい。

 

舞台設定

 「少年」の登場するカットから、舞台となる世界は普通の現実世界であることが読み取れる。

問題は、舞台となる世界がそのひとつであるかどうか、である。

麻枝作品ではAIRCLANNADをはじめ、多世界設定*3が用いられることが多い。ヒロインの格好がインデックス*4のようなこの世ならざる者の装束を身にまとっていることを考えると、彼女が別世界の住人であり、現実世界の「少年」と交錯する物語になる、と考えることもできなくもない。

 上述のループもの説と、前作Charlotteで多世界設定が用いられていなかった(はず...記憶が無い)ことを踏まえると、本作が多世界設定となる可能性は十分にある。

 

登場人物

PV中に登場するのは「彼女=ひな」「少年」、の二人のみである。

主人公が誰なのかについては、現時点ではっきりと明記されていない。「彼女=ひな」なのか、「少年」なのか、あるいはそれ以外なのか...誰になるか次第で物語の方向性・結末は大きく変わるため、今後の情報に注目したい。

 

また別の焦点として、登場人物はこの二名だけに絞られるのか、新たな人物が今後追加されていくのか、追加されるとしたらどれほど増えるのか、が挙げられる。

Angel Beats!のように登場人物が多すぎると収拾が難しくなるが、Charlotteでは登場人物を絞ったことにより人物間のやりとりに目新しさを感じなくなってしまった(と著者は感じた)。放送尺も考慮して、うまいバランスを期待したい。

 

人物設定も気になる部分である。「彼女=ひな」のインデックスコスプレは神になった結果としての産物なのか、あるいは彼女が全く別世界の住人であることを示唆しているのか。

そして「神様になった」ということは神ではない状態があったわけで、それが人間なのか、人間以外の生物なのか...これは考えすぎなのかもしれないが。

 

気になった点

本稿では、上記以外でPV中の気になった点を箇条書きでまとめる。本稿のみ箇条書きとなった理由は、書くのに疲れたからである。

 

言い回し関連

・「そのお供」
"お供"という表現が意味するものとは

・「原点」
単なる、麻枝准作品の中での原点を意味するのか
「ループもの説」で述べた、時間遡行の結果として辿り着いた世界を意味するのか

・「終わり」
繰り返し登場する「終わり」「終焉」が意味するものとは

・「見届ける」

なぜただ「見届ける」だけなのか
世界の終わりを食い止める、といったことにはならないのか

 

視覚表現関連

・波紋
タイトルロゴの背景に現れる波紋
-リトルバスターズ!において波紋がひとつの大きなトリガーとなっていただけに、こういった細かい表現の意味にも目を向けておきたい

・消失表現
タイトルロゴ・一部欠けた「日」、テキストが砕け消えていく表現
-世界の「終焉」を意味するのか
-あるいは「彼女=ひな」や「少年」の消失を意味するのか

・タイトルロゴの「魚」
-何かの観賞魚のように見えるが...ビジュアルだけで判断できる魚に詳しい方、教えてください
-この魚が意味するものとは

 

結び

 

メモ書きのような形で綴るつもりであったが、書いてみると思った以上の分量になってしまった。

今後、本作の新しい情報が解禁されれば新たな考察記事を書くかもしれない。

ひとまず、5月24日に放送される特番を観た上で考えよう。

*1:同人ゲーム「うみねこのなく頃に」シリーズに登場する暗号文。劇中ではこの碑文に沿った見立て殺人が起こっていく

*2:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97%E3%82%82%E3%81%AE

*3:複数の世界が同時に進行していき、だんだんと交わっていく、といいた世界観設定。麻枝氏が自身のバイブルとしている、村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」から着想を得ていると考えられる

*4:ライトノベルシリーズ「とある魔術の禁書目録」シリーズに登場するメインヒロイン。シスター。歩く教会。10万3000冊。