黙示録

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説明・台詞は少ないほど良い ~「スーパーカブ」第一話をみて

※当記事は筆者の独断と偏見に基づき書かれたものです。内容には事実に基づかないものが含まれる可能性があります。

 

スーパーカブ」というアニメの第一話をみた。

supercub-anime.com

 

近年のアニメ作品には疎いが、第一話の出来だけでいうと、とても良かったように感じた。

 

何が良かったと感じさせてくれたのだろうか。

私は、その答えは「台詞・モノローグ(心の声)の少なさ」にあるように思う。

 

この作品の第一話をみてみると、初めて主人公の女の子によって台詞が発せられるまでに、約3分半の時間を要している。

 

ほぼ全ての視聴者が目にするであろう、作品にとって最も重要な部分である物語の開幕数分間を、一切の台詞なく進行させているのである。

 

説明の煩わしさ

世の大多数のアニメ作品は、とにかく「説明」をしがちであるように感じる。

 

その作品がどのような世界観なのか、画面に映っている登場人物はどういう立ち位置の存在なのか、主人公はどういう人間なのか、など、作品を構成する要素がどのようなものなのかを、登場人物の台詞あるいはナレーションを通じて、視聴者に事細かに明示する。「この作品はこういう作品です。見てくれる気になってくれましたか?」という、製作人の思いをひしひしと感じる。

 

私はこのような「説明」が苦手で、近年のアニメについていけなくなってしまったという側面もあるように思う。その理由は2つある。

 

1つは、単純についていけないのである。物語開幕早々「説明」が延々と続き、中には第一話が「説明」だけに終始している作品もある。ひとつひとつの情報を頭で整理するだけで精一杯で、とても疲れてしまうのである。

 

もう1つは、「こういう緻密な設定で作品作ってみました!どや!!!」という、製作人のしたり顔が画面を通してみえてしまうからである。原作者による作品世界観、そしてアニメスタッフによるその世界観の見事な映像化、それらをこれ見よがしに言葉で提示されても、引いてしまうのである。

 

「説明」は無いに越したことはない。

 

スーパーカブ」第一話の冒頭3分半では、女の子の 起床→朝の準備→登校 というシンプルな場面が描かれている。ではこの場面で、この女の子がどんな人間で、これからどのように物語が展開されていくのかを説明する必要があるだろうか。言うまでもなくその必要はない。なぜならこの僅か3分半の間に、その説明が不要なほど丁寧に女の子の生活ぶりが描写されているからである。

 

まだ続けよう。女の子は灯りもついていない部屋で黙々と準備をしていることから、家族がいないことが読み取れる。そしてお弁当として適当なインスタント食品を携えていることから、生活(ひいては人生)における拘りがないことも読み取れるだろう。

 

つまりこの女の子は孤独であり、何か拘りを持った、言い換えれば趣味をもった人物ではないことが描かれている。このことは、「この作品はこの空っぽな女の子が趣味を見つけ、生きる意味を見出していく物語ですよ」ということを、我々に暗示していることをメタ的に読み取ることができる。

 

一切の言葉なしに、登場人物の人間性、作品の方向性を「説明」しているのである。

これこそが映像作品がもつ最大の武器ではないだろうか。

 

言葉で事細かに「説明」するのなら、小説などの文字媒体のほうが遥かに適している。製作人は、自分の意図の思いのままに世界観を文字起こしすることができるし、読者は混乱すればすぐに遡って読み返すことができる。

 

しかし、映像作品においては目に見えるものこそが最も重要な役割をもつ。言うまでもなく、人間は情報のほとんどを視覚情報に依存しているからである。そしてこれは大きなアドバンテージである。百聞は一見に如かずの言葉の通り、画は言葉で表現せずとも伝えることができるからである。ならば、映像製作人は画で情報を伝える努力をすべきである。というより、そうでないと勿体ない。

 

ひとつ例を出してみよう。

機動戦士ガンダム」(1979)は驚くほど緻密に練り上げられた世界観設定と現代にもなお響くメッセージ性を持ち合わせており、今もなお慕われ続ける名作であるが、劇中でその設定が丁寧に説明されるシーンはほとんどない。物語は宇宙に浮かぶスペースコロニーというところから始まるが、そのコロニーというものがいったい宇宙のどのあたりにあるのかは、劇中に断片的に出てくる情報から推測するしかない。そしてその説明が初めてはっきりとなされるのは私の記憶の限り、「機動戦士ガンダムZZ」(1986)第一話である。「機動戦士ガンダム」第一話から通し九十話ほどを経て、初めて説明がなされるのである!

 

だがこれは、作者が不親切だから説明を怠っていたのであろうか?おそらくそうではない。作品設定を事細かに説明するのに物語の貴重な時間を割くくらいなら、他に時間をかけるべきところがある、という作者なりのメッセージではないだろうか。われわれ視聴者はそうした製作人のメッセージを、画面を通して受け取らなければならない。

 

台詞は少ないほどよい

さて、冒頭で述べた「台詞・モノローグ(心の声)の少なさ」という点に戻ろう。台詞・モノローグが少ないことによるメリット、それは視聴者の解釈の幅が広がることである。

 

スーパーカブ」第一話は全編を通して、登場人物の台詞量が極めて少ない。例えば、女の子がスーパーカブを買うシーンでは、女の子とおじさんとの淡々とした短い台詞のやりとりに終始している。女の子が初めてスーパーカブに乗る極めて重要なシーンにも関わらず、モノローグどころかBGMすら一切ない。

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女の子がスーパーカブを買うシーンより

 

視聴者は、二人の断片的な台詞に加え、表情の変化や仕草といった画面情報から、二人が瞬間瞬間にどのような心情を抱いているのかを想像せざるを得ない。女の子がカブに跨った瞬間、画面は急に明るくなり、どこからともなく風が吹いてくる。彼女は一言も発しない。そのとき感じたのは高揚感なのか、感動なのか、動揺なのか。それは我々が想像するしかない。そして、その想像が正しいかどうかに答えはない。登場人物があの時あの場面で何を考えているのかは、視聴者が想像するその数だけ答えが存在する。それが解釈である。

 

しかし、台詞・モノローグは、これを打ち壊してしまう。制作側が「この人物はこう考えていますよ」という答えを脚本に書き出してしまうことで、視聴者による想像の余地は残らず消えてしまう。

 

加えてモノローグに関しては、もう一つ問題点がある。それは、その存在そのものが「嘘」であることである。

私たちの現実において、誰かの心の声が聞こえるなどということはありえない。モノローグを物語に挟み込んだ瞬間、私たちは作品という「嘘」、つまりフィクションをみていることに気づいてしまう。それはあまりにも興ざめである。

 

視聴者の責務

説明や台詞だらけの作品ばかりが増えてしまっているのは、それを作る製作人の責任ではない。私たち視聴者の責任である。

親切丁寧に説明をしてくれる作品は視聴者が楽をできる。我々が自らで作品を理解・想像しようとする努力を怠り続けた結果、自然淘汰の末にそのような作品しか残らなくなってしまった。製作人同様、我々視聴者も作品に対し真摯に向き合わなければならないのである。

 

スーパーカブ」、今後も全力で観ていきたいと思う。